2012年の今年で干支が一回りしてきました。
介護保険が始まった時に国会で丁度介護の美風論”が取り上げられ、保険料納付を巡って先延ばしになることがありました。
国会で介護問題が大々的に取り上げられ、今再び「社会保障と税の一体改革」において再び議論の柱になって来ました。
介護、年金、少子高齢化、生活保護など社会保障は幅広い領域の問題を含んでいます。
高齢社会、超高齢化の名のもとで「介護」が問題とされますが、この論議の中で気づきのは、介護問題が介護する側や介護保険を運営する側からの論議になってないだろうかということ。
老いて少しずつできないことが増え、何か(誰か、何か)の力を代わりに借りる。
これが当たり前の姿でしょうが、当たり前さを忘れて論議をするからどいうも変になる。
ひろさちや氏は『仏教に学ぶ老い方・死に方』の中で現代社会の特徴は、人間の商品化”であると。そして、老いることがその商品価値を下げていくとするマイナス価値を否定している。
まさしくそうだと思う。
老いて介護されること自体は問題ではなく、課題なのだろう。
学生時代に社会発達心理学でエリクソンが老いること「統合 対 絶望」を課題とした。
個人に課せられた老いの自覚と受容という課題は、社会的存在としての人間故に個人と周囲の者が共有して初めて課題解決へ向かう。
介護する側が自分の生活スタイルを変えないでもよいという介護の社会化は、一見素晴らしいフレーズであるが、介護する側がそのことを口に出した瞬間に、介護される側は固く口を閉ざした貝となる。海の底深くにひっそりと沈んだ貝である。
介護される側が自分の思いを語ることは難しい。そこに五感を傾け、想いを巡らすし、相手の心の中を彷徨うことを通じて、介護する側に課せられた課題が見えてくるのではないだろうか・・・
例えば、子供が産まれたらそれに合わせて親は生活を変えます。育児の時間を確保したり、残業をせず或いは居酒屋に寄らず早めに帰って子どもを風呂に入れたりと生活を変えることを苦にせずします。
ところが、介護となるとどうもネガティブになる。
そもそも老いも介護も誰もが通るニュートラルな事象。
そこに介護する側の個人の思いが付いてきているのです。
「エライ」とか「地獄」と思うのは介護する人が勝手に思っていること。
介護に直面したら介護に一生懸命になることが課題なのですから。
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